黒田家と南方録
私の茶道史の解釈では:
1580年以前。茶の湯は割とおもしろおかしいものだった。
1580年頃、突然千利休という男が現れ、茶の湯に改革をもたらし、人気者となった。
1590年頃、古田織部という男が茶の湯をやや武家向きに変えて人気者となった。
それ以降、遠州や石州という男達が現れて、茶の湯を武家の格式にマッチさせて、人気者、というか権勢を誇った。
んで、その頃には利休は既に忘れられた存在になっていた。
以前、黒田如水が水屋に貼った紙の話を紹介した。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20100417
右我流にてはなく利休流にて候間、能々守可申事
忘れられていた存在であったろう利休を敬彰する、という実山の行動は、福岡藩黒田家家老として、この「黒田家は利休流だかんね」という藩祖の言葉を無視できなかったからではないか?
と思った。
同じく利休流を自認する熊本藩細川家の存在も無視できない。
熊本と福岡じゃ離れてるじゃん、と思わんでもないけれども、交流があるのはあきらかだからだ。実山の弟立花峯均が、熊本から伝来した二天一流を相伝されているんだし。
九州利休流コネクション、みたいな土壌があった上での利休への回帰なのだと思う。