置土産浮世之茶話
大森宗龍/東陽堂/1893年。
なんか人形浄瑠璃だか歌舞伎だかって感じのタイトルだが、中はお点前のHOW TOと、茶の逸話。
玉川遠州流八代大森宗晋さんの本「茶の湯・心と形」は以前紹介した。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20090929/1254176364
大森宗龍はその五代。但し西京道茶家元、という名乗りである。中では玉川流とも名乗っているけど。
かなり面白い。
まずは“自序”から紹介。
(前略)
光義政将軍の命によりて。臺子の制儀を分別して世俗に茶法の威儀を授く。
これを雅茶といふ。その法式傳へ/\て利休にいたる。
世間では台子の茶一辺倒だったんを、珠光が台子を整理し、茶法を制定した。それを雅茶と呼ぶ、というのですな。
利休一時秀吉公の寵遇におぼれて。茶の法則をあらたむ。謂はゆる風流茶是れなり。
(されども是れ眞の風流にあらず。たヾ世の風潮に順するを云ふなり。)
んで、利休が風流茶を作った、というわけです。しかも宗龍さんは利休をあまり評価していない御様子。というか権力者に阿るお茶といいたい模様。
其の風流茶も。世とともに形容茶に堕して。僅かに死模様を存じたりしが。それすら慶應年間にいたりて。すでに滅却せり。
明治維新にいたりては。西京の茶人遊藝師の鑑札をうけて。一種の職業におとしいれしぞ實に悲嘆のきはまりなる。
んで、それも形式化し、明治時代にはお茶は死にそうになっていた、と。
爾来たま/\古道を知る人ありとひへども。おほくは。遊藝茶にして。道茶の眞風を擧揚するものなし。されば今日の茶法は濁りて邪法に堕せりといはんも誣言にあらざるべし。
お茶をやっている人もお遊びで、道茶ってものを理解してねーよ!という憤り。
…ここで疑問。
珠光も、利休もたどり着かなかった境地の道茶って誰がはじめたの?
むかし小堀遠江守政一侯は五常を説いて威儀を匡したり。
曩祖漸齋翁は雅茶より道茶に入ることを専らと説かれたり。
今その事理の二つを世に明らかにせんがため。置土産茶話の書をあらはして。まづ事より雅茶に入らしめ。つぎに理をきはめて。以て漸く道茶に歸せしめ以て茶事の眞風を五濁惡世に振起せんとす。
遠州が偉い、といいたいのは判るが、遠州は雅茶だったのか、風流茶だったのか、遊芸茶だったのかがよく判らん。
玉川遠州流祖の漸斎は、雅茶→道茶に入れ、と説いたと言うのだから、遠州か漸斎が道茶をはじめたというのだろうか?
納得いかーーーーーーん!
もし、お茶を道茶、と呼ばれるものにした人がいるとしたら、立花実山と彼のデタラメをマジ受けしてがんばっちゃた後世の茶人、達だと思う。
なので
あはれ好事家よ。流儀をもつて論ずることなかれ。家々みな家法にほこるといへども。その落處にいたりては。千派万派たヾ一流のみ。この書を讀むもの。まづこの意を得て。あへて流儀を拒むことなくんば好し。
ここまで大風呂敷を広げるのは、やりすぎだと思うんよ。