茶道三年 その2

実は、“茶道三年”のもっとも読ませる所は「おくがき」にある。

主人七分で客三分とよくいわるる茶会でも真に気の合った、共に茶を楽しむ同人の間ならば主人十分客十分で、どちらも主たり客たることを忘れて深くその三昧境に入るべきである。
(略)
原則として茶は友達相手の要るものである。
如何に独楽といい無賓主といい、静寂といっていても一人相撲でも茶事にならぬ。
もとより閑庭に落花を眺めて一碗の茶を啜り、あるいは暮鐘の哀愁を釜の音に聞き入るのも静寂独楽の茶といい得る。しかし茶会茶事といえば心を得たる相手の友と共に招きつ招かれつ、一主一客にても数客にても心の歓興を器物の上に、一幅の掛物の上に、一碗の茶の味の上に、黙解暗和するもの、心会交感するもののありてこそ、人生的意義を有するのであるまいか。

ちと饒舌で、理論好きで、そしてロマンチストな耳庵の筆はすでにここに始まっている、って言っていいのではなかろうか?