桑楡録 その2

耳庵は言います。

自分の好きないずれの茶碗でも濯ぎ清めているということは、茶に親しむ者に取りていい知れぬ愉しみごとの一つである。

ああ、そうかもしれません。

ことに今の新緑の好季より夏たけ行きて、高麗梅鉢茶碗、そば、皮鯨、ととや、なんど夏向きの浅い茶碗にはよくすすぎて洗い清むる心の見ゆるものほど爽やかにすがすがしく感じられるものである。
茶事はわれらが生活の道であり、簡素につつしまやかに、乏しきを分かち合う心に生くるのが清寂の美しさに達する捷径である。

なんともすがすがしい名文じゃありませんか。

茶を愉しむ者には富豪の人でも並みの人でもただ徒に道具を買い集めたり、名碗名器を見せびらかすのが主眼でないことは判り切っているのだが

だが?

さて実際に茶の仲間入りをして見ると、春の会には春らしき道具が要り、秋冬は秋冬の仕掛けが要るようになって来る。つまり茶情を生かさんがために夏は平茶碗がほしい。冬は楽茶碗の深か深かしたものがほしく

実はこの文、最終的には「一つの碗を繰り返し繰り返し大事に使って来た人」がいい、って結論にいたるのですが、なんか耳庵の本音が覗いてて面白いですな。