茶の精神 その5 精神茶と形式茶

例の上林日本一のお点前の話に関する論評。

形式茶の茶人は茶の形式的なことだけしかみてゐないが、利休はさすがに、主人の心をみてゐたのである。
そして、形式的の失敗は咎むべきではないとした。
ここに、精神茶と形式茶の態度のわかれ目がみられるのである。

うむ。やっぱり形式におぼれるのではなく、心こそ大事、なんだね。

しかし、精神茶だからといつて、必ずしも形式を無視するものではない。精神を主として形式を後とすれば、精神の進むにしたがつて、形式は自ら、成り立つのである。

どっちやねん。

茶の様式は茶席だけの様式ではない。
生活の中に様式となつて、溶け込むのであつてはじめて生活が倫理化せられるのである。
お茶のときだけ掃除をするが、日常生活はほこりの中でも、蜘蛛の巣が部屋の中え張り廻してゐても氣にならないというのは、感覚が茶道的に訓練されていないからである。
すなわち、茶道の生活化とは云えないのである。

すいません、すいません、すいません!


しかしなんですな。心の茶をする、というのは常住坐臥お茶を貫いて貫いて、形式を心の外に追い出す程お茶を貫くということなんだろうか。

わからんでもないけど、大変すぎる…