茶の湯古今春秋 その4 殿中茶の湯と町人茶の湯の相違

著者は足利将軍家の行っていたとされる茶の湯を殿中茶の湯と定義し、初期茶道の町人達による茶の湯を町人茶の湯と定義している。

さらに、殿中茶の湯とはどういうものであったのか?そしてそもそも、殿中茶の湯は存在したのだろうか?と問いかける。


まず、君台観左右帳記に置ける茶の湯棚の飾り方に関して。

殿中茶の湯は、今日の小展観場の感がある。
そこに、商人階級が、考え出した、茶の湯の趣きは、全くない。
(中略)
いずれにしても、会所の茶の湯は、珠光以後の茶人の茶の湯とは全く異っている。
美術観賞のサービスのためになされた茶の湯であって、茶道ではない。

また、殿中茶の湯の棚は押入の様な作り付けのものであって、客前で点てる為のものでなかったという。

茶の湯専門の棚類は、台子を除いて、殿中茶の湯に無かったものである。
町人茶の湯になってはじめて考案されたものである。
もしも殿中茶の湯が、町人茶の湯と同様に茶事を催す茶の湯であって、亭主のお点前を楽しんだとしたならば、足利将軍や同朋衆によって、一つや二つの新しい茶の湯棚が、考案されてもいいはずである。

確かに紹鴎の袋棚以降、棚作りは茶人のお仕事である。

もっとも各流家元さんは棚作り過ぎだと思うけどね。

現在利休が考案したものだといわれている丸卓や四方棚が、茶会記にも南方録にも出ていないのは不思議である。

おおっと。変な飛び火が。

徳川初期から、中期にかけて、公卿の茶の湯は、盛んになった。
(中略)
もしも足利将軍が、茶の湯に趣味を持ったとすれば、当時の公卿が、それに共鳴しないはずがない。ところが、室町時代の公卿の記録には、茶の湯対岸の火事視するものしか残っていない。
わたくしは再び言う。茶の湯は、足利将軍からはじめられたものでなく、奈良と堺の商人によって創造されたものであると。

まぁそうだろうねぇ。

足利義政の、茶人としての評判も、闘茶の者としての記録も残っていないのだから、足利義政は茶くらいは呑んだだろうけど、ただそれだけの人だったんだと思う。