茶の湯古今春秋 その6 江岑三百年忌茶会

江岑宗左の三百年忌茶会。

まぁ茶会の内容はどうでもいい。今回問題にしたいのは“江岑織部流覚書”である。


この覚書は、江岑が良休に与えた、織部流の伝書に対し表の流儀がどう違うのかを書いたものである。

表千家家元から著者が借り出した書なので、まぁ江岑の書なのであろう。

(前略)
一、 台子の時、水指の蓋置き様、七ヶ所。
◯ 七ヶ所の事、一ヶ所ならでは、之なき事。

薄板の置きよう、鐶の置きよう、盆の上の茶入の置きよう、台子のときの水指の蓋の置きようが、織部流では幾とおりもあるのに対して、利休流では一か所しかないといっている。

織部流の伝書にはいろんな置き方がある、と書いてあるが、表千家では位置は一つだけだよ、という事である。

著者は

わたくしが織部流の点前を教えていただいたときあまりに複雑なので、文化、文政時分に点前を複雑にしたのではないかと疑っていたところ江岑の巻物で、最初から複雑だったことが判明してびっくりした。

どうやら桃山期には適当だったり、複雑だったりした点前は段々と整理され、江戸中期に今のようなお点前になったんじゃないか、という意見の様だ。


私の感覚では、桃山期にはお点前は安定せず、人により複雑だったり単純だったりしていた。それで江戸時代になってそれらが流儀として整理されたのだが、たまたま織部流は複雑な点前を伝承し続けていただけで、桃山時代以降武家のお茶が複雑だった、とは言えないのではないだろうか?

しかしこの覚書、「江岑宗左茶書」とかに収録されているのだろうか?