茶道辭典 その7 宗旦傳授
宗旦伝授、という書物に、茶人の類型があるという。
カタキチヤノユ(堅き茶の湯)
宗旦傳授の中に「物を必ずとして窮屈にすくみたるを堅き茶の湯という」とある。
即ち融通のきかず頭の堅い型式的な茶人を云ふ。
シオノカラキチヤノユ(鹽のからき茶の湯)
宗旦傳授に「利口たて作意過ぎたるを鹽のからき茶の湯と云ふ」とある。
即ち小才がきゝ過ぎ何彼と凝り却て茶の精神を没却するやうな茶人を云ふ。
所謂半可通の者が才を鼻にかけ氣取つた點て方をするを云ふのである。
トウリチヤノユ(通り茶の湯)
宗旦傳授に「所作うつくしく物毎綺麗にて、さのみよき事もなく又あしき事もなく毎も同じやうに何のへんもなきを通り茶の湯と云ふ」とあり、即ちこれと取り立てて云ふ程のこともなく教はつた通りにきれいさつぱりとやる茶人を云ふ。
フカキチヤノユシヤ(深き茶の湯者)
宗旦傳授に、「心に茶の湯有とも所作に不調法なるあり。是を深き茶の湯者と云ふなり」と出て居り、淺き茶の湯者の對語であり、手前等多少不調法な所があつても本當に茶の湯を心得て居ればそれは深き茶の湯者と云ふのである。
ヘツライチヤノユ(諂い茶の湯)
宗旦傳授に「無理に人の氣にあふようにと探りつくろうを諂い茶の湯といふぞ」とあり、迎合的・妥協的・幇間的茶人を云ふ。
リツパノチヤノユ(立派の茶の湯)
宗旦傳授の中に「物毎に手際よくさわやかに綺麗にて何の正しき事もなきを立派の茶の湯者と云ふ也」と云つて居る。
即ち點前などいかにも上手で、水際立つて居る然もそれは技巧の上のことであつて、思ひ入れ、情と云ふことが大事であり、それがなくては駄目で只きれいだ立派だと云ふに留まるを云つて居る。
「深き茶の湯者」が一番良い様に見えて、これは点前が下手なんだよな…。
自分は「鹽のからき茶の湯」になることを警戒せんといかんな、と思う。
話は変わるが現代でもデキがいまいちできちんと仕事がなされていない事を「ぬるい」というが、これは茶道由来の事らしい。
プロレスとかでいう「しょっぱい」は「しおのからき」が由来だったりしないだろうか?
ちょっと方向性が違うか。