空願

茶道口と言えば。

「貧乏な茶人が茶道口って使ってみたい!と思って利休に工夫してもらった話」というのをどこかで読んだ様な気がしたが、なかなか思い出せなくて困った。

探し回った結果判明。茶道古典全集収録、草人木の「座敷の圖」でした。


是ハ和泉の堺に空願といふ
塗師あり、利休一段入魂に
て侍る者也、其座敷のさし
圖也、

座敷ハひら三疊敷を持侍るか、通ひ口を利休仕はしめられしより、うら山しく思ひ侍て、通口を利休のことくにせんとすれ共、いにしへ、堺ハ惣て屋敷のせはき故、れうけんなくかやうにたくミ造られしか、出來してから殊外、面白座敷にて、其比、京の外迄もあまねく此座敷になりぬ、茶を立る手前ハ一疊たいと同前也、

でもこれって道安囲いとほぼおんなじものに見えるんだけど…。炉が客側に出てるか、囲いの内側にあるかの違いはあるけど。


草人木には利休に関する記述はあるが、道安の記述はない。草人木の刊行された寛永三年頃は、遠州全盛期。千家はややもすれば忘れられた存在だったんだろう。


「京の外迄もあまねく此座敷になりぬ」程の茶室なのに道安囲いという名称ではない。いつ道安が復権し、道安囲いという名称の方がメジャーになったのだろう?

まぁ道安囲いのメジャー化は道安足悪い説と密接な関係がありそうな気がする。


草人木にはこの囲いの名称は書いていないので、これを仮に空願囲いと呼ぼう。

道安囲いは炉の幅だけしか客からは見えず、亭主の姿がほとんど隠れていて手先や柄杓しか見えない構造だが、空願囲いは、おそらく炉に正面に客に相対する様に座るだろうから、亭主の姿はまる見えなのではなかろうか?


客から見た道安囲い。亭主の姿は見えない。



客から見た空願囲い。亭主の姿はまる見え。


空願囲いは道安囲いよりぐっと解放的な茶室になると思う…照明にもよるけど。

とりあえず僕は空願囲いの方が楽しそうで好きだな。