南方録に於ける茶禅一如


南方録は、茶の禅に対する優越を書いた書物である。私はそう考えている。

でも、いったいなんでそんな事を書かねばならなかったのだろうか?


だって、禅の権威が失墜していたわけでもあるまいし、「茶は禅の一部である」という方が保護され感もあって、ずっといいんじゃないかと思うんだけど。


そういう視点で読み直すと、山上宗二記の言う茶禅一如と、南方録のそれは違う気がして来た。


山上宗二記は「茶は禅を見本にしていますよ」以外の事を言っていない様に思える。


しかし、南方録は「茶は禅の代用になるから、禅の代りに茶をやるといいですヨ」と言っている様に思える。


結局南方録の筆者の言いたいことは:

こういう事だったりして。