石州秘伝 石州三百ヶ条10 路地の景は利休堺にて海の見へ候路地にて合点あるべし朝がほの路地も是又同前の事

石州三百ヶ条も今回で一応最終回。一個一個やってると1年たちかねないので。

今回は朝顔茶の湯の話。


石州秘伝本:

路地の景は利休堺にて海の見へ候路地にて合点あるべし朝がほの路地も是又同前の事

(中略)
利休の路地に朝顔を多く植盛に茶の湯せられしに又人是を望みければ此般は朝がほすきと引捨手水鉢の向に只一りん朝がほ花を置けると也。
(後略)

茶道古典全集本:

路次の景は利休、堺にて海の見へ候路地にて合点有るへし、朝顔の路次も是又同前の事

(中略)
朝顔さかりの時分、所望の人有、朝顔の花をすきと取りて、二三花手水鉢の邊に殘し置かれしも、又花入へ一二花入候て置れ候共云也、
(後略)

石州秘伝本の藤林宗源は1695年には死んでいる。茶話指月集は1701年刊行。
朝顔の茶の話は茶話指月集が初出だと思ってたけど、こっちが初出の可能性が出てきた。

なお茶道古典全集本の小泉了阿の方は一世代後だとして、茶話指月集の刊行と茶道古典全集本の書写のどっちが先かは不明。


所望する人がいたので朝顔をむしって一輪だけ手水鉢に生ける

という話が

秀吉が望んだので朝顔をむしって一輪だけ床に生ける

に変化したのだろうか?


正直、茶話指月集の方が話としてよく出来てる。よく出来てるだけに茶話指月集の創作だと思ってたんだが、もしかするとこの時期市井に知られた茶話だったのかもしんない。


ただ、もし本当に利休が秀吉の鼻をあかす様な事をしたのなら、石州流の茶人達にもちゃんとそう伝わり、「所望する人がいたので」的ないい加減な話が伝わる事はなかったと思うんだよね。


手水鉢が床になったのも茶話指月集刊行当時の茶風に合わせたんだろうなと思うし。



だから、茶話指月集が「なんらかの配慮」で秀吉の鼻をあかすような改変を行ったんだと思う。


あと。

「袋棚の事」の章に“紹鴎の歌に曰我名をは大黒庵といふなれば袋棚にぞ秘事はこめけり”が収録されているので、こちらももしかすると南方録よりも早いかもしれない。

石州三百ヶ条、意外に重要な書物なんじゃないか?という気がしてきましたよ。