茶道四祖伝書12 三斎公伝書 利休の切腹

利休の切腹について。

扨堺にて少御待候て給候へトて、四畳半ノ小座敷にて炭を直して湯たぎる時、四尺床ニ腰をかけるニ、脇にて勝手方へ臂つかへ候へバ、此置合にてハ無之とて、床真中へよりて云、「かいしゃくの人々ニ案内申迄ハ待候ヘ、それもいわ(れ)ずバ手を上げ可申」とて、脇指をつき立れ共得と不行候へバ、又引抜前ノ所へ立なをし、引廻て腸袋を自在のひる鍵ニ掛し也。かゐしやく有之、古今無之事也。

堺で待機していた利休だが、四畳半の小座敷で湯がたぎった時、床に座って腹を切ろうとして、肱がつかえたので「あ、この置き合わせは無いネ」と床中央に座り直し、「あー介錯の人は切って欲しいときに言うから。言えなかったら手を上げるから」と歯医者で痛い時みたいな事を言った。
それから脇差を腹に突き刺したけど刺さらなかったのでもう一度突き刺し、腸を取り出すと自在の蛭鈎にぶら下げた。
そのあたりで介錯があった。こんな切腹みたことない!


…ぐらいのものか。

肱の話は「へうげもの」でも採用されていたね。

利休といえば京屋敷で切腹→生首が一条戻橋に晒される…なので、三斎の堺切腹説は斬新である。

しかしこの話では利休、なんと自分の床への配置に失敗している。

しかし4尺(120センチ)幅の床なのに肱が当たる位置に座ってしまうとはどういうことか?ちょっと座る位置を間違うとつっかえるほど横幅があったのではないか?

また、茶室の天井高さを6尺(180センチ)くらいとする。そこにある蛭釘に自身の腸を掛けれるとはどういうことか?
平均身長150センチ台の時代には180センチは手が届くか届かないかの位置だと思うのだが。

この辺の記述が(南方録の語る)利休大男説の元になったんじゃないだろうか?