利休居士 餘香録4 茶湯如常

愈好斎は、言う。

居士自身で樂しんでやられた茶事として先づ第一に永禄十二年十一月廿三日の朝の茶會に津田宗及が招かれてゐるといふのが居士の茶事としての早いものであらうかと思はれる。
この時に使つてゐた花入が有名な「鶴のはし」或は「鶴の一声」と云はれてゐるものである。
之を床の上に水ばかり入れて薄板の上にのせて飾つて置いた。
(中略)
元龜元年十一月十八日、この時も宗及がよばれてゐるにも拘らず、やはりこの「鶴のはし」の花入を持ちだして袋を客の前でぬがせて客に見せた。
(中略)
それから天正七年正月廿六日にやられた時も又この花入を長盆にのせて柳が活けてあつた。
それから天正八年十一月九日に中立の後にやはり之を床に持出して白梅を活けておいた。
之を見てみると、居士は自分自身で樂んで茶事を行ふ時には殆ど道具の觀念といふものが、今日のお茶人などが考へてゐる考へとは全然違つてゐる事が分る。
同じ人がこの様に度々出て來るにも不拘、同じものをこのやうに幾度も用ひるといふ事は大變面白いやり方であると考へられる。

利休が同じ道具組みで茶湯をやっていた事を指摘した、かなり早期の資料ではなかろうか?


道具がいろいろある茶の方が都合がよかろう千家の家元としては、これって結構大胆な発言かもしれない。