利休居士 餘香録3 桃山の茶道

千宗守(愈好斎)は、利休時代は規矩もテクも無く大雑把な茶湯をおおらかにしていたんだろう、という先入観は間違いだ、と言っている。
当時の資料の記述粒度からして相当精密な茶をやってたんだよ、と言っている。

それからその次に「柄杓をとつて釜の湯を汲み、或は水差の水を汲むといふ時に、その柄杓の先が高く上らぬ様に注意せよ、又早く運ぶ事を嫌ふ、如何にも静かにさすがに眞の構へを持つべし、總てこの時は柄杓ばかりならず、萬時斯の如し」これ等は湯を汲んでその湯を他の方に明けるといふ様な時に、少々高くならうとも、低くならうとも、さういふ風に道を行く事を、今日でも別に氣に留てめゐない人が多いけれども、當時既に居士の巻中に一つの空路を定めて、高くなくそれから速度が早くなくと云へば、それで完全にその空路を運ぶ方法が決定されてゐると云へる。
こういふ細かい點を既に居士が茶道の技術の中に決定されて居つたといふ事は、今日から見ても驚くべき進歩であるといふ事が出來る。

なるほど。

でも、その資料が気になるんだよね。

今日妙法院に殘されてゐる利休居士の自筆になる茶道の巻物を見てみると(天正八年に藪内紹智に與えた茶道の巻物である)それに細々と茶道の技術に關する部分々々が認められている。

妙法院に残されたこの資料って、西堀一三の「南坊録の研究」の巻頭に載ってた奴だよね…一体これなんなんだろう?何で紹智は今更兄弟子に教えを乞うているんだろう?
紹智が受け取った書が本願寺でなく、妙法院にあるのはなんでなんだろう?

そっちの方が気になるわい。