茶道具の賞翫

茶は、茶碗の賞翫の為にあるのだろうか?
それとも、茶碗は、茶の賞翫の為にあるのだろうか?


利休七則の最初の四つを思い出そう(あと三則は心構えだからね)。

  1. 茶は服のよき様に
  2. 炭は湯のよく沸く様に
  3. 花は野にある様に
  4. 夏は涼しく冬暖かに

ここに書いてあるのは目的だけだ。
「服のよき様に」茶をどうすればいいのか書かれていない。


私は、服のよくなる様に、茶を吟味し、茶碗を吟味しろ、ということだと理解している。


そして、服のよくなる為には、茶碗の、茶碗としての機能だけではなく、その茶碗が表現する美意識も吟味されねばならないだろう。


極論で例えてみようか。


形状や材質が悪く、あまりお茶が美味しく点たない、しかし茶の湯の美意識の中では充分及第点の茶碗があったとする。

そして、形状や材質が良く、お茶が美味しく点つ、しかしなぜか「うんち」と染付がある茶碗があったとする。

後者でお茶を呑みたい茶人は皆無ではなかろうか?

それはおそらく、服の良さの中に道具の美から来る満足感が含まれているから、なんだと思う。


茶は、ただ茶碗の賞翫の為にあるのではない。
茶碗も、ただ茶の賞翫の為にあるのではない。

だが、茶は、茶碗の賞翫に耐える様に吟味されねばならない。
茶碗も、茶の賞翫に耐える様に吟味されねばならない。
その相乗効果が生むものこそが服の良さなのではなかろうか?

結論。

いくら侘び茶だからって本当にその辺の適当な道具だけでお茶を点てたら駄目ってこったな。