わびの芸術6 わびの本質


侘び茶の心、といえば紹鴎や利休が定家などの和歌に託した、といわれるものがある。

ところが「わび」の世界は、その花にも紅葉にも期待を持たないところに第一の特色がある。
(中略)
このように一応美しさも感激も見出すことができないような景色のなかに、もしもすばらしさ、あるいは「よさ」を見出す人があったと仮定すれば、それが「わび」の美であると説き、そのわびは花や紅葉から受ける感激とは異なる面白味があるはずであると解釈するのである。

こんな感じで著者はそれらを解説したあとでこう言う。

以上述べたように、紹鴎と利休とが挙げた三首の古歌の意をよくかみしめると、おぼろげながらわび精神の一端が了解されるように感ずるのは私一人だけであろうか。
しかし、この三首の和歌の意をもって「わび」の全体の解釈が完了したと考えるのは早計である。
この考え方が根本にあって、さらに大きく掘り下げないと、「わび」のすべては了解されない。

むぅ。侘びの言語化は難しいってことか。

その後著者は龍安寺の石庭や十牛図を例に侘びとは…というのを説明しているみたいなんだが…。正直ぴんとこない。

最後には:

しかも「わび」は決して貧乏と隣り合わせ的な存在でもなく、また内容の貧弱な考え方でもないのであって、汲めども尽きない宏大深遠な哲学的要求が多分に包含され、秘蔵されている事を忘れてはならない。

すでに言語化を放棄してないか?

せっかく面白く話が動いたんだから、最後にきちんと言語化してほしかったなぁ。


…って事で、俺が言語化する!


侘びとは、充分な豪華さが可能な事を前提とした、厳選された貧しさの演出。


これでいいんじゃね?うん。