お茶7 茶杓

とり合せの道具と主人の好みや流儀から察し、作者をいひあてなどするのを普通とするが十に三・四作者が適中すれば、それは眞に偶然といふてよいほどその鑑定は困難なものである。
尤も數多く見てをれば、それ/゛\の作者の特色を多分に直感し得ることは、竹杓と雖も他の工藝品と同じではあるが、要するに「わかつた顔をしながらわからぬもの」といふのがまづ僞らぬ古來からの茶人の告白で

美術館などで「これが利休の、これが三斎の、これが沢庵の」と書いてあれば「ああ、なるほど、確かにそんな感じだ」とか思う。

でも、茶杓がごろんと転がしてあって「さぁ、これは誰の?」と言われると、とても厳しい。

主人の好みや流儀などの背景情報が必要、という段階で、茶杓そのものの鑑定ではない、という事だもんな。

なので:

だから拝見に際し、そのどこかにとり柄があり、且つ相當の古色がついてをれば、亭主が自慢をそのまゝ虚心に受け容れて、意見がましいことはいはぬがよく、

という処世術がよい、ということ。

逆に言うとこんなことを書かなきゃいけないほど、茶杓の作者に関してはギスギスしたやりとりがありえるという事なのか…。