茶の湯 作法とたて方5 茶杓
茶杓への茶人の執心について。
なぜ、これほどまでに茶杓に凝らねばならなかったのでしょうか。
前にも述べましたように、茶の湯の眼目である抹茶を客の為にすくうという行為が、まさに生命の滴をすくうのにも似た高度な営みで、亭主の全身全霊が茶杓に集中されねばならなかったからです。
なんか微妙にキモイ言い方…。でも言わんとすることはわからんでもない。
現代の茶杓拝見は、茶の湯がお稽古ごととして表面の型式を学ぶ方向に走っていることと、昔のように全霊をこめた茶杓の創作が行われないこと、などの理由によって、おおむね形ばかりのものになりきっています。
これは同感かな。
今の流れは、
- 古今の茶人、家元、僧侶の茶杓を使うのが前提みたいになっている。
- 無名茶人が自作茶杓を出すのを客が拝見する、というのが喜ばれない雰囲気がある。
- お茶の先生も茶杓の自作を教えない
- 先生方と道具屋の利害も一致している。
というのが問題なんだよな。
お茶人は、お茶事のたびに新しい茶杓を作るのが喜ばれる。
そういう感じにならないと、僕等の世代の茶杓が後世に伝わらないと思うんだよね。