出家

人生、何もかもが嫌になる事がある。


憎悪や貧困なんかのマイナスの事象が多くて困る、というのが嫌なのは当然だが、愛情が多過ぎて困るとか、お金儲けが多過ぎて困るとかが嫌になる事だってあるだろう。


しかし、人は「あらゆる物と縁を切る」事は本来不可能である。ぶっちゃけ、死ぬしか方法はない。

しかし、死ぬ以外の方法が昔はあった。それが出家である。

社会的な自殺をする事で、人は「あらゆる物と縁を切る」事ができた。


しかし、人はそう簡単に「出家して社会と縁を切る」なんてできない。やっぱ代償は大きいしね。


だから、茶の湯の席が「世俗を離れる」ものなのは、その空間と時間だけでも一種の出家をして「一時的に社会と縁を切ろう」としているのではなかろうか?


茶の湯をはじめた京大阪の商人達は、憎悪や貧困なんかからの逃避ではなく、金儲けの煩わしさとかから逃れたかったんだろうしね。


茶の湯の席の会話は世俗から離さねばならないのは、これが理由だと思う。


古くから茶人達は禅…というか大徳寺に帰依してきた。

脱世俗→出家→禅(大徳寺)という流れだろう。


でも、これって歴史的、慣習的な流れであって、一時的に世俗と縁を切るだけが目的なら、別に宗教に帰依しなくてもできる様な気がする。