泥中庵今昔陶話2 朝鮮旅の話
蔵六は高麗茶碗の研究の為に朝鮮半島を旅したらしいのだが、この本にはいとも無造作にその様子が記録されている。
私が朝鮮を旅したのはおかしな動機からであつて、その二年程前病氣にかかり、それは治つたがどうも體が冷えていけない。京都にゐてはつひ家の中ばかりで暮しがちなので、ひとつ旅でもしてきたらよくなるかと、ある日あてもなく京都を立つた。
汽車に乗ると心臓の鼓動が激しくなり、とても長旅が出來さうもない。
神戸で下車すると丁度釜山行の船があつたので、にわかに思い立つて朝鮮にわたった次第である。
冷え症で長旅が無理そうなのにふらっと寒い朝鮮半島にわたんな…というのはツッコミ待ちの韜晦なのだろうか?
んで、朝鮮での窯跡さがしと窯場のフィールドワークが行われる。
朝鮮では日本のやうに松竹をよく乾燥させず、まだ水分のあるやつを平氣でもやす。
だから焼け上つて釉面に光澤がない。そこが又雅味のあるところで、朝鮮ものに親愛を感じさせるところだが、これを日本の窯に入れるとピカ/\になり、井戸茶碗などもあの梅華皮がすつかり溶けてなくなつてしまふ。
(中略)
朝鮮の蹴轆轤は、九州一般に使用してるのと同じ作り方だが、ひどく不完全なグテ/\の轆轤で、日本の陶工にはよほどなれないと細工ができない。
基本、いい加減さが高麗茶碗のいい味を出している、というお話か。
後半は、柳宗悦もおんなじ様な事書いてたな。
燃料はそこらあたりのものを勝手に伐木して使つてゐた。
主には官林の松材を盗伐してゐたが、朝鮮では古來どこの窯でも燃料や地代を拂つたためしがなく、たゞ伐木と運搬の勞力を要したゞけである。
附近の木を伐り盡すと、又木のある土のある土地をさしがて幾度でも移つたものである。
日本でも戦国時代までは似たような状況だったが、藩という行政区分により移動の自由が阻害される江戸時代の到来で、資源の乱伐ができなくなり、計画植林の世界になった。
そういう時代の到来附近で窯業がさかんになったので日本では窯がさまよう事がなかったのだろう。
しかし窯場に転々とされるのも考古学的な発掘にはつらいかもしれない。
いまいち高麗茶碗の研究が進まない理由がこの辺にもあるかもね。