泥中庵今昔陶話3 贋物と古物商の話


蔵六は鑑定家として一定の評価があったらしく、しかも筆を曲げないので古物商と結構敵対関係にあった様だ。

二十年前にある古陶器あの即賣會が京都にあつて、中等以下の古物商が多勢組合をつくつての催しだといふので、私は多くの狂陶家と同行して見に行つたことがあるが、皆の者が私の説明を聞くので、私は人中で説明しないで、ひそかに一隅で皆古色をつけた贋物であると話してゐると、新聞汽車が之を側聞したと見ひて、贋物談を新聞に載せた事があつた。この為めに多くの古物商が商賣の邪魔をするなといつて、私方へ文句を言ひに詰めかけて來て困つたことがあつた。

泥中庵今昔陶話にはこういう話がごろごろ載っていた。

今から二十年程前までは、支那へ古物を買ひに行く商人が相當にあつたが、之も怪我人が多く出來たといふのは、天保年間に上海が開港してより洋人が來て、古陶をぼつ/\買ひ集めたが、日本人は明治初年には長崎禪亭とか、京都鳩居堂、大阪山中などが上物を買ひに行つたが、きず物しかなく、大物なら少々あつたが書院物や、茶席玩具の上等品は見當らなくなつて、まもなく禪亭や鳩居堂支那行をやめてしまつた。之が明治十四年頃である。

この話から判ることは三点。

  1. 骨董屋は昔から中国へ買い付けに行っていた。
  2. そのころからあんまりろくなものは無かった。
  3. 茶が廃れていて道具が乱売されていたはずの明治十年代に、貴重な外貨を使ってまで買い付けが行われていた。

という事ではなかろうか。

やっぱ幕末の一時期以外お茶はたいして廃れていなかったって事だな。