茶の哲学(陰陽造化の茶の湯)2 リキウ

謎の第七代。樋口宗寛さんの利休観は、なかなか面白い。

幼い頃から茶を学び、十七歳で、能阿弥、空海の流れを汲む北向道陳──易庵と号した──に師事し、二年ほど正式に「書院式の茶」をおさめた。
宗易の易は、師の易庵のそれにあやかった。田中姓を改めて「千」姓を名乗ったが、これは祖父の名が千阿弥だったことに由来する。
この時代、いや今日でも、名や号は先人から貰い字することが少なくないが、彼の場合には、つねにそのあたりにも野心がにおった。それというのも堺の豪商──なにやら海賊の雰囲気さえする環境で育った。
血の中にもそれはある。野心の規模は、茶の湯、あるいは名誉、金銭の面でも、並の桁ではなかったといっていい。
後年の「利休」にしても、その休は「一休」からのあやかりであったといわれるが、むしろ「利休」は「陸羽」である。
どちらもリキウと読む。
彼はみずからを、我が国における「茶の神」に仕立てようとした。

この楼門は当然、勅使もくぐれば、関白秀吉もくぐる。
(中略)
利休は「陸羽である」ことを実践したといえる。彼はその母校の一番目立つところへ、「茶の神」としての自分を飾ったのだった。
茶気といえば茶気。これほど壮大な茶気もないだろう。
(中略)
命取りになった。

利休を巨大な俗物として描いている。
俗なのは血筋とまで言っている。

大和小泉慈光院という古刹がある。
(中略)
書院があって、庭に突き出した厂型のその屋根は、わずか四本の柱でしか支えられていない。
(中略)
書院に坐し、庭と向かい合うと、そこにはシネマスコープの画面に似た、長大な視界がひらかれることになる。
しかも、この場所は、奈良平野よりもかなり高みにある。
(中略)
自然、四本の柱が、松林の一部であるかのような気配をおびてくる。もはや、書院の中にある、といった心境ではない。
すでに著者は、天地と一体の境地にある。
天地全体が、この庭にある。
(中略)
作者の名はつとに知られている。
石州。
(後略)

どうもすばらしき侘び茶の系譜は道安→宗仙→石州であって、千家の方は俗な野心家なんですよ、と言わんばかりである。

そういう貶め方はどうよ?と思わなくもないが、まぁ、でも千家を不昧が訪ねようとしたら、えらい金額を請求された、という話もあるんだから、仕方ないと言えば仕方ないか。