名物召し置かれるゝの事

信長公記の永禄十二年の「名物召し置かれるゝの事」の項にこうある。

然而信長、金銀・米銭御不足なきの間、此の上は、唐物天下の名物召し置かるべきの由、御諚候て、先、上京大文字屋所持の一、初花。祐乗坊の一、ふじなすび。法王寺の一、竹さしやく。池上如慶が一、かぶらなし。佐野 一、雁の絵。江村 一、もゝそこ。以上、友閑、丹羽五郎左衛門御使申し金銀八木を遣はし、召し置かれ、天下の定目仰せ付けらる。

いわゆる「信長の名物狩り」の事である。


永禄十二年、といえば利休46才。信長死後、時代の寵児になるのは14年後、という時代である。


花茶入や、富士茄子茶入、蕪無花入、桃底花入、雁の絵。

こういう書院っぽい名物道具の数々の中に、竹の茶杓が入っているのが解せない。


紹鴎あたりが普及させたのだろうから、茶杓があってもおかしくはない…のか。

にしては、この頃の茶人の茶杓への扱いはぞんざいな気がする。


彼らのコンセンサスの中に「(国産の)竹の茶杓も名物となり得る」というのがあったと思えない。でないとそこから慶長年代あたりまでの茶杓というものへのぞんざいな扱いが理解できない。筒への書き方自体どうにもぞんざいだし。


もしこんな時代に竹茶杓が名物となるのなら、天正の頃に、利休茶杓がもっと道具としてもてはやされていて良かったんじゃないかという気がする。