小壷狩り

信長は、堺の町衆から(一応有償で)名物を狩り集めた。

まぁそれはいいだろう。


飛騨の大名、金森可重(宗和のパパ)は、領地で小壷狩りを行って出雲肩衝を手に入れた。

これもまぁいいだろう。飛騨に金持ちがいなかったとは言えないしな。

それを聞いた細川三斎も豊前で小壷狩りを行ったが、家臣松井佐渡が提出したのが山の井肩衝である。

茶道四祖伝書にこうある。

其時家中ノ松井佐渡云、我等も上々の壷持申候。
拙者ノ内ニイナヅト申候鉄炮之者、丹波ノ亀山ニて湯をもらゐて呑候へバ、夫婦住ける家ニ壷ニコガシヲ入て(コカシ)有シヲ、イナヅ是ヲ見て、此壷を申請度と云バ、かの者「安き御用也、進上可申」と云。
「満足申候、代ハ」と問バ「代ニ不及候間、代ハ取間敷」と云。「代イヤナラバ壷モライ候事も不成候」と云バ、「代程之物ニテモ無之、有無ニハイヤ」ト云。

三斎の陪臣が、丹波亀山の民家で見出した小壷。料金を辞退された為、結局70文で入手された。
その値段と人生七十古来稀也という言葉から「人生」と当初銘がついたのが「山の井肩衝」である。


で、ここで疑問。

なんで亀山の民家で、麦こがし入れとして古瀬戸肩衝が使われていたんだろうか?
しかも、只同然で譲られる程の扱いで。

ものすごい豪気な町人が居て、古瀬戸肩衝をこがし入れにして「いいね」と言ってくれた人にプレゼントした、という事も考えられなくないが、でも常識で考えるとおかしな話だ。


考えられるのは、もっと後ろ暗い理由で入手された茶入を、嘘エピソードで正当化した、ということ。

誰かから不法に入手したとかをごまかす、茶入ロンダリングの為のストーリーとかならありそうじゃない?


も一つ、丹波亀山という場所が暗示するものとして、案外、明智光秀関連の遺品だったりしないだろうか?

お玉ちゃん介して親戚筋なわけだし。

それならロマンティックなのだが、光秀の茶会記を読む限り、古瀬戸茶入は使いそうもないなぁ。

ま、家臣のものとも考えられるか。