光秀と鷺の絵
南都逗留中 このとき、光秀は瀧川一益とともに大和検地奉行として奈良に下向、宗及は光秀に随行した。
実際、天正八年の宗及他会記には
同九月廿一日 於坂本、三宅弥平次 口切
(中略)
同九月廿六日 於南都四聖坊、道具拝見
惟日へ持参也、
(中略)
南都逗留中ニ茶壷十二三見申候、
ハイカツキノ天目見申候、
とある。
9/21以降のどこかで奈良に移動、9/26には東大寺に到着している。
10/2には堺へ帰ろうとし、その途中で法隆寺に寄っている。
その期間、松屋はどうしていたかというと、
九月廿三日、八時
一 ヲカヤ道賀ヘ 長順 久政二人
(略)
大鋸屋道賀の客になっているのだから、少なくとも奈良にはいたのだと思う。
ここで疑問。
光秀は何故、鷺の絵を見に松屋に行かなかったのだろう?
宗及は、天正四年に鷺の絵を見ている。
宗及は光秀に鷺の絵を見る様、勧めなかったのだろうか?
まず光秀の趣向が全く侘びではなかった、興味無かった、というのは考えられる。
利休が鷺の絵を見に行ったのは前年の天正七年。「鷺の絵は数寄の極意ですよ!」という利休のキャンペーンは、まだ功を奏していなかったのかもしんない。
も一つ気になるのは「南都逗留中ニ茶壷十二三見申候」の部分。
「奈良で誰それに供応を受けた」とは書いていないのだ。
十日ばかりの滞在で、供応を受けたついでに道具を見せてもらうというやり方だと、茶壷を12〜3個も見るのは難しいだろう。
供応無しに道具だけを見に行った、という感じになるのではないか。
光秀と一益は、検地奉行として行ったわけだが、別のミッションとして「信長の道具狩り」の下見があったのではなかろうか?
検地に天王寺屋が同行するというのは不自然な気がするが「検地ついでの道具狩りの鑑定役」として行ったのならば納得ができる。
堺での道具狩りは堺衆には苦い思い出だっただろう。