長闇堂記

神津朝夫/淡交社/2011年。

神津先生の“長闇堂記・茶道四祖伝書(抄)”が出たので、長闇堂記を読んで行く。


茶道古典全集にも載っているのだが、いまいち読みづらく敬遠していたのはナイショ。

さて。


長闇堂クボゴンは、僕等よりよっぽど利休の時代に近いトコに生きていた。

だから、クボゴンが言ったことになんとなく真実味を感じてしまうのだが、結局彼だって口伝や子供の頃のうろ覚えなどぁゃιぃ話も多いと思う。
話半分くらいに聞いた方がいいのかもしれない。

ま、それを一応念頭にいれつつ読む。

堺の南北に宗及の弟子が約六十人、宗易の弟子が約三十人いましたが、秀吉公が宗易を師匠に召されたので、世の中がみな宗易風の茶湯となったのです。

おもしろいのは、天王寺屋宗及の方が、千利休より弟子が多かった、という事。

でもその弟子達はどこへ行ったんだろう?

宗及の方が利休より身上がデカかったんだし、有力な弟子も多かったと思うんだ。

なのに茶人系譜とかを見ても、宗及の弟子は(家族除いて)5人ぐらい。どこへ行ったんだか全然わからないぜ。

利休がもてはやされる時代が来て、利休に乗り換えた弟子とかもいたんじゃなかろうか?


そういう視点で“天王寺屋他会記”を読む。

天正10年よりちょっと前くらいに、宗及とよく連れになっていたのは誰だろう?
ひょっとして、そいつが弟子なんじゃなかろうか?

…。

あれ?山上宗二

利休の弟子の筈だが…でもそれも自称だしなぁ。趣向的に宗及の方が気があいそうではある。