麟閣その2
麟閣について、中村昌生が「茶の建築」で以下の様に書いているのを見つけた。
私は特に少庵らしい独創に基づいた表現をこの茶室の中から発見することができなかった。
また織部によって燕庵形式が成立されたのは慶長年代にはいってからのことであった。
その点からも、少庵が会津にいた間にこの茶室を造ったという説には大いに疑問があるといわねばならない。
つまり、少庵の作ったものではない、という認識である。
床柱以外は総て新しい材料に取り替っている。そしてまた、旧規に忠実に建て直されたのであろう。
現状は、少庵がその手で削った、という床柱以外は、材料を一新し、建てなおしたものであると。
正直、私も少庵が燕庵形式を作った、とは思えない。
でも解決策あるぜ?
少庵は、深三畳とかの茶室を作り、手づから削った床柱も建てた。
でも、若松城は蒲生氏の後に、上杉が入り、マイナーな方の加藤氏が入り、駄目な息子さんが改易され、会津松平氏に…と変遷している。
途中で記録に残らない変更があって、その後はずっと「旧規に忠実」になっていて、実は最初の原型を留めていないのかもしれない。
殿様が「んー千家流の深三畳は暗いから、武家らしい明るい茶室に変えてよ」とか言ったら、茶道頭も抵抗できねーべさ。