江岑夏書2 四方釜

四方釜之事、少望ニ而易へ被申、紙形切候て、旦へ則、渡被申候
(中略)
少、氣に不入候て、九ツとやらんいさせ候、一ツ/\あしきとて、たい所ニ而うちわらせ候、
(中略)
たゞいま宗佐ニ在之釜、八ツめノかま也、
七ツめのかまは山しな宗甫在之候、
九ツめノ釜、少切形ニよく似申候とて秘蔵ニ候、
尤易も御覧可有候、其釜旦ニ而風炉自在ニ而秘蔵候處、後藤少齋京へ隙ニなり候て上り、
旦へ茶熱心ニて、易流候とて、釜もらい申候、

四方釜は少庵の依頼で利休が紙形を作ったもの。

少庵はこの紙形でレプリカを作ったが、気に入らずに壊させまくった。

七つめの釜が山科宗甫の所に、
八つめの釜が江岑宗佐の所に、
九つめの釜は少庵が秘蔵していたが、宗旦経由で後藤少斎に譲られた。


「旦へ則」の意味が取れない(年齢的に宗旦が絡むと思えない)のだが、大意はこんな感じ?


利休四方釜は一つだけでなく、最初の一つに加え、三つのレプリカがあった。

レプリカの三つの持ち主は判っているので、山田宗偏の所へ行ったのがやはりオリジナルなのだろう。

だが、どうして江岑はオリジナルが山田宗偏の所へ行ったと書かなかったのだろう?
あまりに有名だからなのか?それとも他の理由があるのか?