へそ茶9 主客双惡

明治十二三年頃關蘆雄と云へる茶人あり、
江戸千家川上不白の別號孤峰の號を讓り受けて、大宗匠然と構へ居るを、人々面憎しとて何か一本參らせんと待ち構へ居りしに、或る時伊藤雋吉男を始め其他當時の茶人數名を招待せし其中に一人面識なきものあり、

関芦雄というにくたらしい茶人が居た。
皆がどうにか関をぎゃふんと言わせたいと思っていた。
関は伊藤男爵などを含む茶人数名を招いたが、顔見知りでない客が混じっていた。


関葦雄という人が明治時代いろいろ教科書を書いているが、その人だろうか?
伊藤雋吉は後の海軍中将。この頃は金剛(初代)の艦長か。
そんな人が茶人と言うのも意外と明治十年代あなどれない。

箒庵が茶を始めたのは明治二十五年。自分の始める前十年以上前の噂話を箒庵が知る筈がない。
川上宗順か伊藤男爵あたりから聞いた話だろうと思う。

面識のないものを招ける程明治十年代はお茶が盛んだったという事が判る。

此人偶々麻布邊の或る葉茶屋に立寄りけるに、恰も關宗匠の來りて茶を買い入るゝ所なり、竊に其問答を聴くに、此邊の茶屋とて挽き古したる濃茶のみにて所詮御用に立つまじと番頭の言ふを、關は打消して、つまらぬ客に喫まするなれば其茶にて十分なりとて、之を買取りて歸り行くを彼の實見者は心憎く思ひ、忽ち此事實を伊藤雋吉男始め當日の茶客一同に内報しけるに、

ある時関宗匠は招いた客が居るのも知らず、お茶の店で「くだんない客に飲ますので」と言って駄目なお茶を買っていった。
当然、客全員に伝わった。

左らば此方にも致方ありとて、當日の茶會には勿論伊藤男が正客にて、一同申合せたる事なれば、正客より始めて茶を啜る眞似して、態と音を立てながら其實一滴も之を啜らず、順次斯くして末客より主人に向ひ、今日の御茶は誠に好き御服加減なれども分量少しく多きに過ぎ、聊か飲み餘したれば失禮ながら御主人の御助けを乞ひ度しと言ひけるに、主人は左る企みありとも知らず、ソハ誠に有難き事なり、拙者御相伴仕るべしとて茶碗を引取りて飲み始めけるが、驚くべし五客分悉く茶碗の中に殘りて、飲めども盡きず干せども減らざる五匁の茶を、目を白黒にしてやつと飲み了りたるを一同去り氣なく見過ごして、扨て茶事終りて門外に出づるや、顔見合わせて上首尾/\と大笑しつゝ立去りけるにぞ、客も客、主人も主人なりとて當時同人間の大評判なりしとぞ

結局客は飲む振りだけして、亭主に相伴を求めた。
亭主はうかうかと受けてしまい、五人前の濃茶を全部飲むはめになった。
客も客なら亭主も亭主だと当時評判になった。


…客も客だ、という評判で少し安心。

むかっぱら立ったからってちょっと酷いよね。
教訓は…買い物する時は周囲に注意、かな。
茶道具屋経由で話が伝わることだってあるだろうしね。


葉茶屋という言い方はこの頃からあるんですね。
…というか茶屋の区別については現代人よりも重要と考えていて当然か。