熊倉功夫/第一学習社/2011年。
上田家に伝わる茶道覚書を解釈したもの。
上田宗箇の主君、浅野幸「長」が「問」い古田「織」部が「答」えるという形式の通信教育。
その中継ぎを上田宗箇がやっていた関係で、上田家にこのドキュメントが残っていたらしい。
桃山末から江戸初期に掛けての茶の湯の実際が少し伺える好資料、といえるのではないか?
ただ、浅野幸長は古田織部に聞く必要があったのだろうか?
上田宗箇に聞けばいいと思うのだが。
大名の格式で、古田織部に師事しないと格好が付かなかったのだろうか?
それとも家臣に範を求める思考回路がなかったのだろうか?
どうなんだろう?