茶の湯作法2 天王山

序文から、当時の茶道観がほの見える。

まずは茶の湯の「精神修養」の面について。

即ち古來より名将武家等が比較的に斯道に精進することの多きは何が故であつたでせうか。
無論、これは高尚であり、風流であり、雅致あるものとして禮讃せられたことは云ふまでもなきことですが、その根ざす所は精神の修養と云ふことに外ならないと思ひます。
これ等は斯道に因める青史を繙けばその事蹟は随所に見受けられますが、殊に一顧の値ある例證を引用して見ますと、今より約三百五十年前、即ち天正の昔、豊臣秀吉が主家の仇を報ぜんとて、山城國山崎の西北に聳え立つ天王山麓の寳寺に屯ろし、時々妙喜庵の茶室で當時の大家千利休に茶を點てさせ而して英氣を養ふたと云ふ一事は何が故でせうか。

当時の武士達は精神修養として茶の湯をやっていた。
秀吉は本能寺の変の際、天王山の麓、待庵で、利休に茶を点てさせた。
それはなぜだろうか?

普通人の考へでは陣前近くに敵陣の迫つてゐる折柄そんな悠長な事をして居られない筈ですが、そこが秀吉の膽力を涵養すべき茶室があつてこそ、逆臣明智光秀追討および天下掌握の謀計も成就したものと思ふのであります。

フツーに考えると、決戦前にそんな事してる暇はないが、秀吉の胆力を鍛える茶室があってこそ、光秀に勝って天下をとったのだと思うのです。


…。


六月二日本能寺の変。情報を得て急遽毛利と和睦して五日に姫路入り。備中高松から姫路まで、実質一日で100kmの行軍。

その後、姫路で根回しの手紙を書きまくり、休憩しながら兵力集め。

九日に姫路を出、十一日に摂津富田。光秀が淀城入りしたので、山崎に十二日に着陣。十三日に決戦。

…お茶なんぞ呑んでる時間は本当にないんだけどなー。


信長死んでるの隠して毛利と勝手に和睦しちゃう胆力があれば、別に天王山でお茶呑まんでもいい気がするし。


まぁね。戦争の気配がひたひたしていた昭和十二年頃なら、尚武の気風としてそういう精神修養に関して言及したい気持ちもわからんでもない。

でも山崎あたりは秀吉の領土でもなかったわけだし、利休はまだ大家じゃなかったし、適当書き過ぎじゃねーか?