茶道要鑑6 如何に教授すべきか

今度は師匠側の事情。

凡そ師匠として、子弟を教授する上に於て、始終頭を痛め腦を懣まし、早く上達せんとするは、獨り吾人のみにあらずして、誰しも欲する所ならん、然れば此教授の方法に就ては、技術より先きに進めんか、理より先き説かんか、孰れの道を採るが、最も適當ならんと、大いに窘しむ所である。

先生側としては、技術=体の方を先にするか、理=学の方を先にするか、悩むと言う。

花道に有ては、技を先きにし理を後になすの傾向あり、
(中略)
翻へつて茶道を思はヾ如何、規矩にのみ拘泥し、理窟に奔つれ眞理を究めず、肆ゆゑに其技術にいたつては、甚だ遅々として進まず、
(中略)
規矩を自由に應用する事出來ず、却て規則の為に束縛さるヽを以て、不便なものを作らへ、侘と稱して故人らに侘の體裁を作り、數奇と唱へて好事と間違へ、客を請待しては、知らず/\の内に不敬を醸し、又失體を演ずる等は、屡々吾人の見聞する處である。
斯る誤解は理窟を先きに修めたからである、畢竟理窟といふ、理に窟が伴ふから此弊害は免れんが、窟を脱して理のみ會得せば、決してこの間違はない。

茶道では理の方が先に来るが、おかげでいろいろ変な事が起きる。理だけ修めればいいが、理屈の陥穽に落ちると変な事になるから気をつけてね、みたいな話だと思う。


でもなぁ。

茶の湯の理は、そもそも「へ理屈」から成っていると思う。理と理屈の境界は、師匠が決めているだけ。

だから、ここで師匠側が求めているのは「師匠の教えはそのまま受け止めて、自分で勝手にこねくり回さない従順な弟子」なのかもしれない。

併し之を教授する上に就ては甚だ困難に加え、初心者に對し兩者を同時に、習得せしめんとしても、到底不可能の事であつて、又習う者の腦漿にも大に因る所である。

理に関しては「オツムの出来如何」ですよ、というのはあまりにもぶっちゃけ過ぎ。

世の師匠たるもの、従來の經験に徴して、宜しく教授法の全たからん事をのぞむ次第である。

結局投げっぱなしかよ!