茶道要鑑7 總論
さて総論。
…これまで紹介したのは、実は巻頭言で、あって、なんと本文はここからだったりする。飛ばしすぎだよ瑞穂流。
當時到るところ茶の湯を玩ばぬものが無いと云ふほど流行つて居る、この茶の湯が流行するに従つて一方茶道の方は、或は之れと正反對に退歩しては居ないかと思はれる、恁ういふと何んだか變に聞えるが、實際當時ほど茶道は地の底に隕ちた事は無い、
「茶の湯終末論」は、南方録の書かれた元禄時代からあるので、気にする程の事はないと思う。
今江湖で流行つて居るのは、單に抹茶を撹拌す一種の身振狂言である、換言すれば茶の湯舞といひて、茶筅を以て碾茶をシャブ付かす舞踊(ダンス)である、踊りである、
ダンスである、とは良く言った。言いにくい事なのに良くもまぁ。
何故當時の茶の湯は踊りであるかといふに、精神修養を説くものなく、只だ手が上り過ぎるとか、下がりすぎるとか、足の運びが怎うのと、その事にのみ熱注して肝腎の道を説ものがほとんど少れである、
大正初期も茶の湯の稽古は角度がどうの、という方法だったと言うことが解る。
著者は手足の角度を厳しくする事に批判的だが、意味がないとは言っていない。精神修養にもっと重きを置け、と言っているのだと思う。
でも、精神修養に重きっておけるのだろうか?
精神修養したければ茶の湯を通してしないで、精神修養だけをすればいいのではないのだろうか?
そもそも私は茶の湯を、精神修養になると思ってやってない。楽しいからやるのだ。
それでいいんじゃないだろうか?