茶道要鑑11 もてなし

或時瑞穂五代の一眞宗匠が豫て茶友の指物や某を突然訪ふた處、某は大變喜んだが、至急の仕事をして居るから、今宗匠を待遇す譯には行かぬ、華主先も大切であるから、暫時待つて貰ひたい、左すれば手が隙くからといつて、宗匠を待たせて置き、軅て仕事も終つたから、イザ之より客に接せんと、宗匠を客間に通し、尤も獨身者の職人であるから、茶室の設けもなく、臺所兼應接所書齋並に茶の室といふやうな、所で、茶を點てたが、其時五代の瑞穂一眞の曰くに、今日ほど心よき待遇を享け、また緩々樂しんだ事がないと、非常に喜んだといふ話であるが、何とも面白いではないか、

瑞穂の五代目が不時の茶を所望にいった所、仕事中の主人に待たされた、だがそれが良かった、という話。

大抵の者なら客が來ると、我なす事を捨てゝ置ても、客に接するは當然である、が併し能く考へて見ると、それは客を待遇すのでは無くて、却て客を早く歸去がしの扱ひである、
何となれば、用事を缺いてまで客に接したならば、心ある客はお尻をヂツト据て居られぬ、

だって亭主の用を中断してしまっては、客は落ち着かないから。全部終わってから楽しもうよ、というお話。


この話のキモは、不時の茶の湯だからこそ待ったり/待たなかったりするという事。

そして、待たされずに慌ただしい茶の湯をするなら、待ってでもじっくりお茶をしたい。

…その気持ちは判らんでもない。ただ、やはり「不時の茶」というのは隠遁者の為にあるお茶なんだなとの思いも深くした。

古来から茶人としての心得とされた「炉の火を絶やさず不意の来客にもいつでもお茶を出せる」は、仕事をしなくても生きていける様な人だけのものだろう。家で仕事している人ですらこうなら、勤め人は不時の茶の輪には入り様がないわな。