宗旦聞書6 茶を弄ぶ事5

一、持る道具にも其人の心さまは知らるゝ物ぞ
たとへば床の懸絵文字の碩なる頌文手跡のみにくきよりも主の心拙なく見ゆる
さればとて過分の物を所持せよと云にはあらず
たゞ安らかに夫となしに物からのよきがよし
道具にも四色の品有第一には葉茶壷第二には釜第三に文字第四に茶入なり
壷は茶の湯茶の湯者の庫なり是悪しければ茶の湯の本意にそむき
釜は亭主勝手に入候跡も興を残し
釜さへあれば客の心をなぐさめ文字は物を悟り心を乱すまじき為なれば主宝とす
茶入は何の道具より愛ありて一品なり
此四色の外は何にても苦しからず又四色の内不足なりとも悪敷には非ず侘は思ふようにならぬ物とぞ

持っている道具でも茶人の心が知られてしまう。
掛け物が醜いと、亭主の心も未熟に思える。
だからといってすごい物を持てと言うわけではない。なんとなく品の良いものをもつべきだ。
道具にも4色の品が有る。
第1は茶壷。第2は釜。第3は掛軸。第4は茶入。
壷は茶を入れる道具なので、是が悪いとお茶がまずい。
釜は亭主(と運びの道具)が勝手に持ち帰られた跡でも活躍する。
釜は客の心を慰め、掛軸は心を安定させるので亭主の宝である。
茶入は他の道具よりも愛がある一品である。
この4つ以外はなんでもいいし、不足があっても侘び茶人はしかたないよね。

…。


道具の品が悪いと茶人の心も疑われるよ、というアドバイスは、正しくはあるのだが、なんだかさもしい気がする。

道具の番付が「茶壷、釜、掛軸、茶入」というのはむしろ室町の茶であって、宗旦の時代とはそぐわない気がする。
とはいえ、宗旦個人が時流に逆らうと言うのはいくらでもありそうな話ではあるが、宗旦の茶壷に関するエピソードって、印象にないなぁ。


宗旦聞書は後世の偽作で、しかも懐古っぽくする為に道具の番付をこう設定したんじゃないかという気がする。