淡々随筆3 心の修養

大正12年の記事。

毎度申す事ですが、私は茶道の本旨は心の修養が第一であると思ひます。
(中略)
よく月並釜に見聞する事ですが、小さい茶室に吾れ先にと入亂れ、茶さへ飲んだら用事はないと、ろく/\道具の拜見もせずに退席すると云ふ無茶人がある樣ですが、これ等も正しく席順に従ひ入席し、主人も茶を飲ましたら役濟みであると云ふ樣な考へを持たずに、全ての點に注意して粗漏無き樣にしなければならないと思ひます。

茶だけを飲みに来て道具にきも点前にも興味がない、という客層がじぇんじぇん理解できない。

大正末年近くはまだまだ茶の湯最盛期といってもいい時期。

月釜が掛かっていたのに、茶そのものにしか興味がないなんて…。

今よりもぐっと嗜好品の幅が狭かったので、薄茶飲むこと自体が楽しみという層がいたという事だろうか?

それとも茶の湯が行き着くトコまで行き着いて、もはや道具にも点前にも興味がなくなって、茶のうまさだけしか評価しないという、ハイエンド過ぎる層がいたのだろうか?いやまさかまさか。