日本喫茶世界の成立2 弘仁の茶と鎌倉の茶

第2章は日本後記の弘仁6年にある茶の記述と鎌倉時代の茶。


弘仁六年(815年)に僧永忠が嵯峨天皇に献茶した記述が有る。
それだけでなく、以下の記述も。

弘仁六年六月三日、畿内ならびに近江、丹波、播磨などの国に茶を殖え、毎年これを献ぜしむ

中国から招来した茶の木がこのあたりで広く栽培される様になったという事らしい。

だが、この時期の茶に関する記述に著者は疑義を呈する。

弘仁期の茶の記録は、<薬>としての特性に関する記述を、なぜその周辺にともなっていないのであろうか。

鎌倉時代栄西喫茶養生記でその薬効を高らかに謳ったのに比べ、違い過ぎる。
唐からの輸入文化であれば、当時の茶は薬に他ならない筈だからだ。

まず何よりもすべての茶を<中国渡来>とする半ばアプリオリな前提から解き放たれることが必要であろう。

著者はその違いを「日本自生の茶の木とその周辺文化」が由来していたからではないか?と疑っている様だ。


確かに、茶をすべて唐からの文化輸入の結果、と看做すと、どうしても無理がある様な気がする。

ただ、当時の記録が文化人である僧侶のものしかない様では、日本古来からの喫茶文化というのは証明しがたい。

昔から庶民が茶を飲んでいた…という事が立証できれば、茶道の前身が闘茶であるという無理な歴史が緩和されるのだが…。