實用茶道讀本6 少庵と剣仲

利休の衣鉢を継承しましたものは千少庵と藪内剣仲であります。
利休には千道安と云ふ長子がありましたが不具の為めに早世いたしました。
よつて後妻宗音の連れ子少庵に世を譲っております。

昭和30年代に道安/少庵への研究が進むまで、南坊録の記述の為に「道安は不具者で早世した」が信じられていた。

千少庵は餘り多く門弟をとらないやうでありまして、徳川家康の懇望によつて教道してをります傍ら宗旦と宗甫に教へてをります。

少庵は利休死後会津にて蟄居。秀吉死後許されたが、宗旦に家を継がせ隠居した。子供の千宗旦/山科宗甫に教えたのはよしとして、そもそも「余り多く門弟を」なんて余裕ないと思うの。
千家で茶人ならば門弟がいなければならないだろう、というドグマを感じる。


そして少庵が家康に教えたというのはどこから来たのだろうか?南坊録準拠でもこういう話にはならないと思う。

少庵が請われて家康に教えたのに、宗旦が仕官拒否ったら社会批判になりそうだし。


この辺の説がどう生まれたのかは知りたいところだ。