千利休3 待庵

待庵、という特別な茶室について。

利休以前の茶座敷は「座敷之廣狭、貴人御茶湯之座ハ六疊敷相應、其謂レハイカニ茶湯と申共膝詰ニアラヌ物也。御相伴モ少間ヲ置テ、恐アル風情ニミナ着座ス。ソウナミ(總並)ハ四帖半ヨシ」(『數寄道大意』)が通例であつた。

茶室の間取りとしては「貧乏人以外」は四畳半が最低ライン。山上宗二もそう言ってる。
しかし、利休の時代:

「三疊敷は紹鴎の代迄は道具なしの侘數寄専とす。(中略)侘數寄専一の二疊敷が何故關白秀吉にまで及んだか。
(中略)
何故貴人の側から侘數寄の側へ降りてきたか。この問ひに答へるものは、貴人と侘數寄を媒介した「名人」をおいて外にない。
具體的には従来の公式に「異見」をたて、みづから新意を工夫した千宗易利休より外に答へうるものはないのである。

侘びしか使わない二畳の茶室に関白までが招かれる様になった。
これこそ利休の力である。

つまり侘びの茶と道具の茶とを同じ舞台に引き摺り込んだプロデューサーは利休、という指摘は、当時としては斬新だったんじゃなかろうか?

山崎の滞留が一時のものといふことは秀吉にはもちろん解りきつてゐた。
待庵が一時の使用といふことは利休にもわかりきつてゐた。
この假の茶室がはからずも利休の想念の結晶となり、またこの結晶として形をとつた待庵によつて逆に利休の想念が自覺的に明らかにされたのである。
二疊といふ侘數寄専門の圍が、この造形によつてやがての關白を招じ入れる場所となつた。
やがての關白は、恐らくこの二疊において始めて利休の茶の精神に觸れたであらう。
(中略)
「貴人」を二疊の侘座敷に坐らせたのは利休であるが、秀吉はまさにここに坐つたのである。

坐らせる側の力だけでなく、坐る側の覚悟まで描いているのは実にすばらしいとしかいえないぜ。