千利休4 傘亭

待庵への対比として、傘亭について。

私は高臺寺の傘亭の外貌をみて、本願寺の書院とのきはだつた對照を感じた。
(中略)
「さびたるはよし、さばしたるはわるし」といふ言葉があるが、それを利用すれば、これはわびではなく、むしろわばしてゐるといつてもよい。
(中略)
傘亭のいはゆる利休好みに、はからずも露出してしまつたわびの氣取りは、實はわびのなかに本來かくれてゐる要素であらう。

著者は、同じ利休の茶室なのに「わばした」印象のある傘亭に注目した。

同じ數寄の間にあつても、書院臺子の派手な茶と、草庵露地のわびた茶があつた。
侘數寄の極北には善法とか丿貫がゐる。
これはその極北の故に、わびのもつ對比性をも既に失つて、側目がわびの極端な姿として認めるにすぎないといふ域にまでつきすすんでゐる。
ところで利休が一體どこに位置してゐたかを決めることは實にむづかしいことである。
利休を論じることのむづかしさは、實にこの一點にかかつてゐるといつてよい。
『南方録』の示す利休の如くに、わびの方へ單純化しえないからむづかしいのである。と同時に、利休の不逞といつてよいおもしろさは、この不安定なところにゐて、美しい形をつくりだしてゐることにある。
傘亭のやうに氣取りと氣づかせないところに利休がゐる。
極端ないひ方をすれば、わばしながら、わびてゐるような姿をとつてゐるところが利休である。

著者は必ずしも、厳しく削ぎ落した待庵に利休を重ねていない。
傘亭の、作意、衒い、不安定にこそ利休を重ねている様に思える。

本書では、利休と秀吉の対立を、草庵と書院に対比させている。
その上で草庵の極北にはなりきれない利休を、待庵でなく傘亭にみたてているのは面白い。