千利休2 禅と茶人

著者は、禅と茶人の関係に関し、非常に疑念を抱いていた。

堺の豪商出の茶人たちには、丿貫の示す無常觀はない。
色即是空もないわけである。だから紹鴎の侘びは「正直に愼み深くおごらぬ樣」といふにとどまつた。

鋭い指摘である。無一物というには紹鴎名物は豪華で多過ぎる。

さきにもいつたやうに、わびは對比において起る。
過去の豪奢に對する現在のわび、世間の豪勢に對する自分のわび、また自己の豊富に對する自己のわい等である。
豪奢や豊富に對していへば隠逸や貧寒であるが、これは量的な相違はあつても有に對す有であることには違ひない。

「超大金持ちが気分侘びてみた」という相対化の中に紹鴎を置く、というのは当時としては結構大胆な思想かもしんない。

さきに大林和尚が紹鴎にあたへた「茶味同禪味」をあげ、この言葉には警戒を要すると書いた。
今日でも茶禪一味といふやうにいひふるされてゐる。
なるほど利休を初め、茶人たちは禪に接しまた參じてゐる。
茶道と禪は近い。然し一味といへるかどうか。
(中略)
禪僧たちが果して一休の如く空と無と眞實を、堂々として茶人たちに示したかどうかもあやしまれる。
(中略)
趣味の上での禪味の授受がまづ普通ではなかつたかと、さういふ推察ができるわけである。

つまり、禅門はパトロンに媚びていた、そう言っている。

現代の視点では「そりゃそうだよなぁ」という感じがひしひしするんだよな。
一般人にまで媚びて一行書書き散らしているわけだから。