千利休5 切腹

著者は先行研究や小説などを引用し、さまざまな利休の賜死の理由を考察している…が、いまひとつ歯切れ悪い。

というか、語りたいのはそういう事ではないんだと思う。

何を原因に死を賜わったか、ではなく、何故賜わった死を回避できなかったのか?が重要なのだ。

日輪の子を以て任ずる秀吉と、達磨を客にせんといふ利休とが同じところに生き、同じところで一方からいへば主従、他方からいへば師弟といふ關係を持續することはできない道理である。
若しこの對立を解消する途は、と問ふならば、利休自らが達磨となり、廓然無聖然として、達磨が梁の武帝に對した如く秀吉に對するのが一法であらう。
(中略)
達磨はさつさと梁をきりあげて魏の國に去つたが、三千石の知行取の利休にはそれができない。

利休は、超然たる聖人ではなく、俗人たるが故に死んだ。それが著者の主張ではなかったか。

利休のわびはもともと秀吉を越えないのが宿命である。
秀吉の派手あつてこそのわびであつた。

そして、利休は秀吉の光/庇護を必要としていたとさえ言っている。

茶聖というにはあまりに弱く/情けなく/それ故に歴史に残り得た利休像ではないだろうか。