千利休6 利休を批判すること

本書ではこの後、キリスト教松尾芭蕉の話が出てくるが、そういう話はずっぱり切り捨て、本書の位置付けについて考える。


明治以降、千利休は茶聖扱いされて来た。それが戦後になってから、批判的な…というと言い過ぎになるが、とりあえず「聖人扱いしない」本が出るようになった。この本もその一冊。


なぜなんだろうか?


私の考え。


大正の頃までは、利休を批判することは利休由来の道具を否定する事につながり、近代数寄者に嫌われる可能性があった。

戦後、近代数寄者は失権した分、家元が力を持つ様になった。

しかし、家元の力は弟子にしか及ばない。

そこで弟子以外の所から出てくる「一歩引いた冷静な言説」を止める事ができず、「利休批判してもいいんだ」みたいな風潮ができたんではなかろうか?

利休を批判すること=家元批判ではない、というか。


横社会で村八分にされるのは辛いけど、縦社会なら別のツリーに移れるしねぇ。