茶器の見方
序文から。
凡そ、茶器と云ふものは、茶入にせよ、茶碗にせよ、或は又、水指にせよ、何にせよ、其の鑑賞の眼目とするところは、其の器物が、果たして、茶の湯に用ゐられて、役に立つか立たぬかと云ふことを見定むることに存して居るのである。
茶道具の鑑賞は、茶の湯に役立つかどうかが全て、という考え方自体は尊い気がする。
でも、「役に立つ」の内に、「箱書きがあるのが客にアピールできる」が含まれていたりすると、話は別なのではないか。
多くは、其の器の來歴、語を換へて申せば、古來の書付のみを重んじて、是れは、箱書付が遠州公である、故に、珍重すべきものである。やれ、是れは、誰れそれの家に傳來の由緒ある品である。故に尊重すべきものであるとのみ心得、或は、又、其の器の、眞と贋とのみが見別けられヽば、以て、茶人の能事了れりと為して居る向きが多い。是れでは可かぬのである。
著者はその点考えていて、箱書きや伝来がどうとか、あるいは真贋が判ればいいという鑑賞眼を否定している。
それが本書で説明する鑑賞法である。
…でも実は結構「昔ながらの約束ごと」に頼っているのが微妙に残念と云えば残念。民芸運動もあった時代なんだから、新しい評価基準があってもいい様な気がするが、それで「茶の湯の用に立たない」という評価になってしまったのなら困るわけか。