近世茶道史4 禁中・公家茶への道

江戸初期の茶会記にある禁中・公家の茶は、総括するとこんな感じ:

これらの例からも知られるように、ここでも格別の道具が使用されているわけではないが、やはり後段、大酒というスタイルがとられている。
このような傾向は他の人物の場合であっても大きな相違はみえない。

そして、(やや江戸初期からずれる気もするが)外部との交流としては、やはり宗和と宗旦だという。

このような仙洞や公家の茶のリーダーとはどのような人物だったのであろうか。まず念頭にうかぶのは金森宗和であろう。
(中略)
これらからすると、宗旦の茶も宗和に劣らず受け入れられていたと考えることができるであろう。
このようにみてくると、江戸時代はじめの禁中・公家の世界には、遊宴をともなった独自のスタイルというも、かつて南北朝から室町時代にかけて将軍や上級武将たちの間でおこなわれた茶のありようが、江戸時代に至ってもこの世界には残存していたということができるであろう。

しかし、外部講師として、宗和が宗旦が介入したにしては、そう簡単には侘び茶へ傾倒していかない、というのは、禁中・公家の保守性というのが感じられて面白い。



なお秀吉の献茶以前の茶の湯の記録は「御湯殿上日記」に記載があるという。

さらに注目すべきは同年九月九日条の記載で「むら井よりおちやさうといふ物、御けいこにまいる」
とみられ、天正九年九月の段階に、禁中でも茶の湯の稽古がおこなわれたことを確認することができる。

京都所司代である村井貞勝がお茶の先生を派遣していた、という事は、織田信長の肝煎で、禁中公家に茶をひろめようとしたということ、茶の湯御政道という体制に組み込もうとしていた事をしめすのかもしれない。つまり、そんなに自発的な動きではないのかも。


その流れは江戸初期にまで続き、大名達が将軍との交際の為に茶を学ぶ様に、禁中公家も織豊徳川政権との応対の為に茶を行っていたのかも。


宗和は大坂の陣で豊臣寄りになって廃嫡された人物。宗旦は仕官を忌避した人物。徳川政権の紐付きではない。
そういった人物を講師にしようというのも、禁中・公家のささやかな抵抗だったのかもしれない。