近世茶道史5 わび茶の継承
道安と宗旦の千家再興について。
まず道安の動静。
その後利休の切腹に関連して、一時京都・堺を離れていたが、赦免と千家の復興に伴って、再び秀吉に参仕することになったらしい。
秀吉の勘気が解けたのは1594年頃か。そして秀吉の死ぬ1598年までの4年くらいは道安が秀吉の茶堂に復帰していた時期があるということか…。これは気付いてなかった。
茶堂としての立場はどの程度だったのだろう?
利休の門下からは「利休七哲」とよばれる高弟達があらわれ、その茶をひろめていったと同様、道安門下からあらわれた桑山宗仙は、後に大名茶を担う片桐石州を生み出していたのである。その意味では、利休の茶は武家茶道のなかにも受け継がれていったとすることができるであろう。
利休→織部の流れを考えると、師匠の茶風がかならずしも継承されない時代だと思うので、正直どうなんだろう?という気も。
そして宗旦:
その宗旦のおこなった会が茶会記にはじめてんみられるのは慶長十三年のことである。前年、堺の道安が没し、その血脈のうちで利休の茶を引き継ぐべき人物として認識されるにいたったといえるである。
そうか、宗旦の出世は道安死後なのか…逆に言うと、それまでは道安の影響力はそれなりにあり、堺千家が主流派で、京千家はマイナーだったという事になるのか?
そして、本書では宗旦のさまざまな交流/さまざまな活動に関して紹介があるが、「その活動資金の源泉は?」というのには解答がないな…。
宗旦文書からすると子供からの仕送り/道具の切り売り/目利き代/墨跡販売だが、それで賄えるレベルじゃない感じの多彩な活動。藤村庸軒からの援助とかもあったんだろうか?