近世茶道史3 大名茶道の創造
遠州は主に京都に在住していて、全国に茶を指導していたわけではないのに、どうしてリードした事になっているのか不思議だったが、むしろ中興名物などの道具に与えた影響が評価されたものの様だ。
特に、唐高麗への注文茶陶への関与は、証拠にやや欠けるものの、日本の唐物崇拝からの脱却に大きな影響を与えたと言う。
また、鎖の間を中心に据えた茶の湯を遠州がやっていた、という事も語られているのだが、京都の遠州がそういう茶をした→全国に広まった、という構図が描けないのでやや説得力に欠ける気がする。
なぜなら、江戸初期の茶は、将軍からトップダウンに下りて来るものだったからだ。
将軍への献茶を命ぜられる場合もたびたびあったから、麾下の大名達も、必然的に茶に通ずることが必要でもあった。
大名は将軍と茶をする為に茶を学び、家臣は大名と茶をする為に…という繰り返しである。
このプロセスに対する遠州の関与がいまひとつよくわからない。
林左馬衛さんは、柳営の認識としては「利休→織部→秀忠」という道統である、と語っている。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20080202
徳川家の茶の湯に、遠州と言う指導者はいない、という表明だと思う。
では、江戸初期の茶道のどこに、遠州というピースははまるのだろうか?
遠州の目利きで、極少数しかない唐物崇拝から脱却し、中興名物などで全国の大名にそこそこの道具を行き渡らせる事ができる様になった、という事だろうか?