利休七哲について

江岑夏書にある利休弟子七人衆について、昔疑問を書いたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20120207

  1. なぜ利休の弟子が大名ばかりなのか?
  2. なぜ嫌いな織部を含めるのか?

この辺謎だったんだけど、近世茶道史を読んで、ちょっと頭の整理ができた気がする。

  1. 利休の死後、千家はほぼ壊滅状態にあった。
  2. 豊臣家の滅亡後、堺はほぼ壊滅状態にあった。
  3. 身分制が厳密になって来た。
  4. 天下の茶は、将軍を頂点とした武将達の式正の茶が主流になった。
  5. 利休を学んだ上で逸脱した織部/利休を学ばず織部を発展させた遠州の時代が来た。

という状況下で、

  1. 利休から台子を習った大名はこんなにいますよ
  2. 織部もその一人ですよ
  3. だから今時の式正のお茶は、利休のお茶の一部なんですよ

というのをアピールしとかないと、武家の式正の茶メインの世の中で存在感をなくしちゃうよなぁ。利休の茶は士農工商の商のお茶ですよ、というより、利休のお茶を士もやってますよ、の方が聞こえもいいだろうしね。


利休七哲は、別名 利休台子七人衆。

利休の弟子で、武将はほかにもいたろうに、秀吉に台子を許されたメンバーで構成されているのには、たぶん、利休は侘び茶ばかりの人間じゃありませんよ、という意味が込められている、とすれば、江岑の頃はそれほどまでに侘び茶は廃れかかっていたという事でもあるのだろう。