近世茶道史6 禁中・公家茶の創造

第2章「茶道の展開」では、江戸中期までの茶の湯を扱う。
第1節では、禁中・公家の茶がどう展開したかを、茶会記で追っている。

対象は後水尾天皇の弟、常修院。
後水尾天皇の子で、上皇となった後西院。
やはり後水尾天皇の子の三菩提院こと一乗院真敬法王。

…禁中の茶だが公家の茶ではない気がするなぁ。
でも公家の茶は「槐記」があるからいいのか?

常修院晩年の茶事より:

では道具組みではどうだったのであろうか。茶杓では金森宗和以外のものが使用されていないことが目をひく。
これまで宮の茶は宗和の茶系をひくものとされてきたが、『槐記』の「昔シ常門ノ宗和ヘ、朝込ノ茶ヲ所望セラレテ行カレシガ」などの記載を勘案するならば、妥当な見解なのかもしれない。

禁中・公家に宗和の影響は感じられるが、宗旦の影響はあんまり感じない。
少なくとも宗旦の茶風が禁中に影響を与えられていないので、京都住んでたから交流があった、程度の事なのかもしれない。

焼物に目を転じると水指、花入では「仁和寺水指ぬり蓋」「御室焼エヒラ花入」など「御室焼」が七回、「粟田口焼」「水指粟田口耳口アリ」と粟田口が二回使用されているほか、古備前音羽焼の茶入、香合が各一回みられる。
これに対して茶碗では「三島手新渡」「新渡」「雲鶴」「高麗」など、いわゆる新渡物と思われるものが大部分を占め、ほかに高原焼などが若干使用されている。常修院宮の会における焼物とは、さほど古いものに力をおいて使用するものではなく、比較的新しく焼かれたものを多く使用しているという傾向を見出すことができるであろう。

禁中・公家の茶では、まわりのみんなが貴人なので、古い茶碗は躊躇われるのだろう。

逆に言えば、京都の上層部でそういう新物茶碗を歓迎する風潮があった事が、仁清をはじめとする京焼を育んだのかもしれない。


印象としては、禁中の茶はあくまで遊興の茶であって、禁中の方々が、自分達で楽しく好き勝手に発展させたもの、という感じがするなぁ。