近世茶道史7 わび茶の拡大
宗旦は、自分の息子達を大名に仕官させる事に腐心していた。
加賀前田家の仙叟に関する記述。
さらには加賀藩における仙叟の活動としては
(中略)
茶室、茶庭の設計、茶道具の管理、茶事に関する職務を司っていたのである。
私が一番疑問を持っている、
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20080825
加賀藩に於ける、金森家と千家との序列に関しては残念ながら記載無し。
また、宗旦の弟子、山田宗偏、杉木普斎、藤村庸軒も活動を開始。
宗偏は茶道便蒙抄を残すが
この『茶道便蒙抄』でもう一つ考えておかねばならないのは、杉木普斎による『普斎書入茶道便蒙抄』とのかかわりであろう。
(中略)
一書にこれだけの相違をみせるとすれば、もはやその茶のあり方、それ自体の相違と考えた方がよいであろう。
そうか、宗偏と普斎で茶風に違いがある、という事か。
…宗旦の頃は、今の茶の湯と違って師匠がやり方を押しつけたりしないって事だったんじゃなかろうか。
みんながみんな、自分なりの茶の湯を持っていた、というか。
あと、宗旦の高弟たち、みんな直接間接で出版に係わってんのな。
「茶の湯とは心に伝え目に伝え耳に伝えて一筆もなし」なんて教え、ぶっちぎりだぜ!